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『感動ポルノ』のもたらした真の弊害 障害者を見て「感動すること」は悪いことではない

投稿日:2016年9月23日 更新日:

『感動ポルノ』という言葉があります。最近ネットを中心に急速に広まっている造語です。定義は曖昧ですが多くの場合「障害者を利用して感動を得るために創られる物」を指すようです。

日本だと某テレビ局の某番組がよく槍玉に挙げられるように、これらの作品に嫌悪感を示す人は少なくなく、この言葉が急速に広まっている大きな理由と言えるでしょう。僕はいつもこの手の話題を見る度思うのです。

障害者を見て感動することは果たして悪いことなのかどうか?と。

確かに『感動ポルノ』と呼ばれるような物は存在していて、個人的にもどうかと思うものはある。でもそれを見たら感動してしまう自分も確かにいて、それを間違った感情だと断じるのも不本意だ。

そもそも『感動ポルノ』と、ただ障害者を取り扱った作品にどのような違いがあるのか。

これらの違いについて自分なりに考察しました。よろしければお付き合いください。

感動すること自体は悪いことではない

まず大前提として障害者が出ている番組を放映することには一定の意義があります。メディアでしか知ることができない障害や病気は沢山あって、それらは取り上げられなければ、絶対に知ることなく終わっていたであろうものも多いです。

だから、障害者をメディアで取り上げること自体に否があるとは思えません。寧ろ可能であれば積極的に取り上げていくべきです。障害が当たり前になる世の中を作るには、大衆間に共通認識を広める必要があるからです。

では、その番組を見て感動することは悪いことなのでしょうか?

僕は正直これも悪いことであるとは思いません。

考え方を少し変えましょう。
障害者とは、言うなれば自分と少し違った生き方をする人達のことです。

自分と「違う生き方をしている人たち」から感銘を受けたり感動することは日常的なことです。テレビ番組であっても『情熱大陸』のようなドキュメンタリー番組や、オリンピックなどのスポーツ中継から感銘を受けたり、力を貰うことは少なくないでしょう。

人は自分とは違う何かを持っている人を見ることで感動する生き物です。それが「障害を持っている人」であっても何ら不思議でありません。「障害者だから」ではなく「自分と違うから」見方も違うのです。

特に我々は「障害者だって普通の人間なのだから、差別してはいけない」という教育を受けています。なので、障害者を見て可哀想と思ったり不幸だと思うことに対してかなり抵抗があるのだと思います。

でも実際はその逆で、相手のことを不幸だとか可哀想だと思わなければ前進することもありません。「だって普通の人間でしょ?」という大嘘によって状況が改善されることは絶対にないと思います。

その感動を得た人達の中から「彼らの助けになりたい」と現場で率先して働く人が生まれる可能性だってあるわけですから、それを無価値であると断じることはできないはずです。

より多くの人が障害者の生き様に感動することがきっとより良い世の中のために必要なことです。感動とは決して「涙を流す」だけのことではないのですから。

感動を与えることだけを考えたビジネスの成れの果て

では何故『感動ポルノ』という言葉が生まれるのか。これはあくまでも「感動している」受け手ではなく「感動させている」発信者に問題があります。

正直なところ「これは感動ポルノだ!」と言って毛嫌いしている人達だって、恐らく関連作品を見れば幾つかには感動してしまうと思います。人が頑張っている姿を見て感動しないのも正直どうかと思いますし。自分だって感動してしまうと思えるからこそ嫌う、ということもあるのではないでしょうか。

人は自分とは違った存在に感動するが、面倒なことに完全に関係のないものには感動しません。必ず「共通した何か」を持った存在に惹かれ、見入ってしまうもの。

それを考えると「命」や「身体」や「健康」と言った要素は、万人が共通して向き合っているものであり、感動を呼び起こす上で最も手軽な題材となり得ます。

自分と違う人達の生き様に人は感動する。そして世の中に感動を求めている人は大勢います。言葉は悪いですが、障害者と呼ばれる人達は、これを引き起こすにはあまりに手軽な存在です。

故に「ビジネス的に考えて」有用だと思われてしまう。障害者を使って手軽に感動を引き出せば数字が取れる。お金になるに違いない。

ここに来て発信者に「感動させる」強い気持ちが現れます。障害の実体を伝えることよりも、ただ感動を与えることだけを考えて番組を構成する。最悪、障害者に感動するような行動や発言を強要する。これが『感動ポルノ』の正体でしょう。

そんなこと改めて言われんでも知ってるわボケと言われそうですが。今の社会にはこれを勘違いしている人が沢山いるのではないかと思うのです。

何故なら、この手の話題では、よくそれを見ている人や感動している人が叩かれたり、さも障害者を見て感動すること自体が悪いことかのように断じる人々で溢れてしまうからです。

実際はそれを見て感動するのが悪いわけではない。
事実を伝えることも悪いことではない。
前向きな話を放映するのも悪いことじゃない。

ただ報じられた事実を見て感動する。前向きな姿に感銘を受ける。それ自体は素晴らしいことだと思います。「感動させる」ことだけを考えて創られたものが悪いことなんだと認識すべきです。

そして感動しただけで満足してはいけない。それでは『感動ポルノ』の片棒を担いで終わってしまう。別に皆が皆何か特別な行動をしなくたっていい、ただその番組を見たことで理解を深められたのなら、それが今より優しい世界を作る一助になってくるはずです。

『感動ポルノ』の弊害

感動することが悪いことでないなら『感動ポルノ』の何がいけないのか?創り方に問題があっても得られる結果は同じでは?

そう思いたいですし、そうであってほしいもの。しかし実際の我々は、この『感動ポルノ』によって、今ある障害者の現実を直視できなくなってしまっているのです。

「は?募金?あのクソみたいな番組の募金箱に金なんか入れんわ」
「あんなのを見て感動する奴らと一緒にされたくない」

こういった本来不必要な価値観や対立を生む原因を大きくしてしまっている現実があります。感動することその物が悪いことかのような価値観を生み出し、直接的な行動を取り辛くしている。

番組がクソであることと障害者が困っていることは別問題です。でも実際はそれを「助けたい」と思うことすら悪いことであるかのような風潮を作り上げてしまっている。

「ダサい」「カッコ悪い」「偽善だ」「無意味だ」
こういった声を生み出し、沢山の人がこのネガティブな言葉の渦に飲み込まれている。

これこそが『感動ポルノ』のもたらしている最大の弊害に他なりません。

障害者の中だけでなく、関係のない第三者の間でさえ派閥と対立を作り上げてしまう。結果として状況が改善されるどころか、寧ろ悪化してしまう危険性すらある。

一丸となって臨んで行くべき問題に、余計すぎる壁を作り上げてしまっているのです。

だからこそ我々はこの『感動ポルノ』という言葉が持つ問題点をしっかりと受け止め反芻しなくてはなりません。今までボヤっとしていたこの価値観に『感動ポルノ』という名前が付きました。なので今ネットは大騒ぎです。『感動ポルノ』という言葉を使いたいだけ症候群の人々で溢れています。

今のままではきっとこの『感動ポルノ』を人や作品を否定する体の良い道具として使い続ける。それだけで終わってしまうのではありませんか。

そうならないよう、真の問題が何なのかを、今一度しっかり見詰め直していくことが必要です。

今後どうあっても『感動ポルノ』が無くなることはない。僕はそう思います。故に我々がこの『感動ポルノ』との付き合い方を考えていく。

それが今よりも良い世の中を作っていく変化を促してくれることでしょう。

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